動中の工夫

坐禅コミュニケーション

鼻持ちならない

 野狐禅に陥った者の言動・所作などをよく「鼻持ちならない」などと表現する。「丘サーファー」なんかも類義語かもしれないが、私もその域をでない一人であろう。今回はその戒めとして、昨日の坐禅会での法話を記録する。
 
 1日一炷は坐るという生活習慣ができてくるとそれはそれなりに功徳がある。しかし、修行がある程度進んでくると、野狐禅に陥る者、魔境を悟りと勘違いする者がでてくる。これらを防ぐためには
 
・師について修行する…在家の場合は週に一回の坐禅会がこれに相当する。ときに境涯を点検していただく。
 
・たまに摂心などでまとめて坐る。二炷の普段の坐禅会なら抽解も坐を解かずにぶっ続けてぶっ坐る。
 
 など。
 
 うーん、いずれにせよ日常の努力にそれをこえた非日常的努力をたまにプラスせよってことか?
 
 経験上、普段のリズムを越えた努力をする勇気がなかなか持てない。「明日、疲れが残ってたら嫌だなー」とか考えて、いつも通りの時間坐ればいいや、と考えてしまう。でもその自分でつくった限界はじつは根拠のないもので、そこ本当の限界ではないよ、ということを体で発見しないといかんのだろう。