動中の工夫

坐禅コミュニケーション

机上の空論と大喧嘩

 「正念相続を以て自己の煩悩や悪癖に喧嘩売る」、それがこのブログのモットーだ。しかしそれでほんとにいいのか?と最近思い始めている。

 私は本気だ、常に本気だ。美しい立居振舞がしたくて坐禅を始めるとか、コミュニケーションスキルの向上のために腰骨を立てるとか。も端から見れば遠回り。故意に現実逃避もしくは落とし穴に落ちにいっているんじゃないかと思い、全細胞、阿頼耶識までに検索をかけても、そんな気配無し。やっぱり私は本気だ、本気の無知・無明なのだ。

 煩悩がなくなったとき、本当の智慧はあらわれるのか?机上の空論ではないのか?短所をつぶしていくのがよいのか、長所を伸ばしていくのがよいのか。

 でも流れは確実に「正念相続を以て自己の煩悩や悪癖に喧嘩売る」方向に向かっている。まさか舌癖の悪さまで批判の対象になるなんて予想できないでしょう?でも現実に起こったことなのだ。こうなったらとことん「正念相続を以て自己の煩悩や悪癖に喧嘩売」りつづけてやる。結局は人間向いてないことを生業にするのは難しい、長所で生きていくのかもしれない。でも短所をつぶそうとする努力はそれはそれでいいことなのだろうから。