動中の工夫

坐禅コミュニケーション

摂心に行きたいか?

 大森曹玄老師が『参禅入門』でも書かれているように、居士といえどもたまには摂心に参加するといいという。

 私は、12時間くらいの摂心に参加したが、つらかった。普段の坐禅の姿勢が悪いことが否応なく認知できる。無理な力が加わっている箇所がガチガチに凝って耐えられなくなる。それで「これじゃいかん、もっと坐って、次回の摂心にはもっと上達しよう」と思うわけである。

 私の参加している坐禅会のメンバー達はみな、いろいろな工夫をされている。肛門を閉めるだとか、箸の上げ下ろしだとか…

 長く参加されている方は、坐蒲をあまり高く積まないことに気付いた。初心者は坐りやすいように高く積めばよいが、慣れてきたら低くしても坐れるよう、訓練した方がよいのかもしれない。

 私は今、結跏趺坐&無字の公案に挑戦中である。半跏趺坐&数息観の時と比べると、

丹田に力が入りやすい(肚と背の力のバランスが取りやすい)。胃に力が入りにくく負担軽減。

公案と一体になっている自分と、それを観察する自分がときどき裏返ってくる感覚がある(これはいいことなのか?悪いことなのか?)

・力量不足のためか、公案になりきれない時は極めて雑。得てして数息観より雑になりやすい。
 →基本の数息観に立ち返る。