動中の工夫

坐禅コミュニケーション

亀鑑をよみました

今日の坐禅会で釈宗活老師の亀鑑の提唱がありました。「亀鑑」というのは「のり、てほん、規範」といった意味*1で、禅宗では禅堂によって違いがあるものの、古徳が参禅弁道に努力するよう激励するような内容になっている。

私が参加している坐禅会の禅堂の入り口にも「亀鑑」が掲げられているが、漢文のためなかなか読みこなせなかった。本日は訓読で読んだので大分内容が理解できた。また新たな気持ちで坐ろうと思わせる名文である。以下、訓読文で紹介する。

 

龜鑑

 

諸大徳。此事は智にも屬せず、不智にも屬せず、佛に在って增さず、凡夫に在って減ぜず、八解六通心地に印し、三身四智體中に圓なり。心外に向つて求むること勿れ。人身得難く佛法聞き難し。此身今生に向つて度せずんば、更に何れの生に向つてか此身を度せん。諸大徳。參禪を要すや、須らく放下著すべし。箇の甚麼をか放下せん。箇の四大五蘊を放下し、無量劫来の業識を放下し、自己脚跟下に向つて推し窮め看よ。是れ甚麼(なん)の道理ぞと。功夫は須らく頭燃を救ふが如く急切なるべし。精神を奮起し、片時も放遲すること莫れ。無理會の處に向つて究め來り究め去り、究め究めて止まざれば、則ち心華發明して十方刹を照さん。謂つ可し、之を心に得、之を手に應じて便ち能く大地を變じて黄金と作し、長河を攪いて酥酪と爲すと。豈平生を暢快にせざらんや。只管(ひたすら)冊子上に言を念じ、語を念じ、禪を訪ね道を訪ぬること莫れ。禪道は冊子上に在らず。古德許多(そこばく)の辛艱を喫して方に此道を得たり。我豈獨り然らざらんや。宜しく二祖の斷臂と雲門の折脚とを懐(おも)ふべし。勉旃(これをつとめよや)、勉旃(これをつとめよや)。

臨濟正宗傳法沙門 宗活輟翁 述

 

(以下、思うところ)

仏も凡夫も此の事は等しく、多い少ないではない。この身体・心にあるのであって外に求めるものではない。頭の炎を払うがごとく急いでとりくむべきだ。禅の悟りをマニュアルに求めてはならない。古徳たちは苦労して此の道を得たのだが、それは我々も例外ではない(苦労しないで得ることはできないが、此の道を得ることができない人もいない。だれでも得ることができる)。

「だれでも悟れる」ということと「マニュアルは弊害がある」というのは現代人には相反するように感じるかもしれない。ただしここでいうマニュアルは修行法のことではなく「さとりとはこういうものだ」といったものである。また成功体験談の類である。ついこういったものに手を出してしまいがちだが、そういった自分の身体・心の外側にある安易な情報は弊害になるのである。

修行法そのものはシンプルであるが、なにもかも捨ててとりくむのはとても難しいことである。