動中の工夫

坐禅コミュニケーション

とりかかる姿勢

 玄侑宗久サンショウウオの明るい禅』二章サンショウウオの「てきぱき」章下文に曰く「(略)しかも行動は、行動じたいが喜びを伴うべきだろう。考えを行動に移すだけでなく、からだの意志でも動くのである」(66-67頁、海竜社)。

 茂木健一郎氏曰く「勉強や仕事で集中力を発揮するには、この「自分と対象の距離をゼロにして没入する」ということが前提条件になります(『脳を生かす勉強法』69頁、PHP研究所)また曰く「本人が、行動に伴う結果ではなく、その行動自体に価値を見出しているということです。つまり給料や成績、勝敗に対する執着はまったくなく、純粋に仕事や勉強、競技に集中し、その集中している状態を楽しんでいるのです」(同書、67-68頁)。

 やはり分野は違えどすごい人はみな同じことをいっているなあと思う。私が坐禅の体験修行のためにとあるお寺に行ったときに、母親に連れてこられたという中学生がいた。学校は行かず最初は無理矢理連れてこられたが、早起きや寒さ坐禅の痛みなどつらいこともあるのに、気に入ってしばらく居座ることにしたという。お寺の食事・読経・坐禅などの行動それ自体にやはり喜びを感じているようである。意味も考えずに般若心経の暗記に夢中になっていた。

 これが禅語にいう「無功徳」かと思った。大人になるにしたがって、見返りを求めない努力なんて考えられなくなっていた。仕事に取りかかるときに利益と損失を分別してしまうのはいたしかたないとしても、いざとりかかったらただそのことに集中したいものだ。