動中の工夫

坐禅コミュニケーション

沈香も焚かず屁も放らず

 特にこれといって役立つこともしないが、かといって世の中に害を及ぼすようなこともしない、所謂「沈香も焚かず屁も放らず」という状態のメカニズムについて考察したい。私の場合は技術の習得過程に於いてこの状態になる。

 指導者――私
     ↓
   物事・業務

所謂OJT研修の段階では、概ねこのような構図になるだろう。このとき「私」は「指導者」と「物事・業務」の両方に目を配る必要がある。つまり
.「指導者」が手本として「物事・業務」を行うときは「指導者」に観察の焦点がある。
.「指導者」が「物事・業務」を説明しているときには「物事・業務」に観察の焦点がある。
.「指導者」とのコミュニケーションのときはこの構図になりきり、適切な態度・敬語を用いる。
これが理想的である。しかるに「指導者」が「物事・業務」を説明しているときには「物事・業務」に成り切らず、「指導者」に対する敬語に成り切っていては是「沈香も焚かず屁も放らず」という状態になろう。ここは失敗をおそれず他の全てを忘れ去り「物事・業務」に成り切ることである。

 気痢崑?斌亙錙廖↓兇痢崑?品事・業務」、靴痢崑?品公」を状況に合わせ、転換していくのが「只管修得」ということになろうか… ただしこんな複雑なことを考えてもますます「沈香も焚かず屁も放らず」という状態を深めていってしまう。むしろ勇猛心をかきたて「只管修得」ということに心を注ぐことで、上手に立ち回る消息もつかめるということであろうか。