動中の工夫

坐禅コミュニケーション

校勘の瞑想性

 校勘とは異なる版本とつきあわせて異同その他を著すこと。その目的はその書籍の旧態に遡らんとすることである。

 私は研究である古典をまるまる校勘したことがある。実際に行ってみると、なぜ訛字になってしまったのか、間違えた人の感覚が伝わってきたり、いま実物としてみることが出来ない古版本の旧態に遡れたりすることがある。これは非常に不思議な感覚である。ある種の宗教性があるような気がする。もちろん校勘学とは非常に再現性の高い学問であり、「学問のために学問する」というものであるが。

 しかし中国の清朝考証学の大学者たちがあれだけ真剣に校勘した動機には、古に遡りたいという儒学的思想だけでなく、「校勘という行為そのものが持つ光悦感」いってみれば校勘のもつ瞑想性も関係していたのではないだろうか。

 近年、写経や音読がブームであるがこれも写経三昧・音読三昧になる快感そのものが動機となっていると思う。さすがに校勘学ブームが起こることはないと思うが、たとえば校正という職業の人気が高い理由もひとつにはこんな所にあるのかもしれない。