動中の工夫

坐禅コミュニケーション

真剣に坐る

 坐禅を初めて三ヶ月、初めのうちは慣れないながらに真剣だったと思う。今は坐禅会でも堂内の作法でも、気の抜き方が分かってきたから、その分真剣みに欠いてきたように思う。

 坐禅を始めた時は、まだ悪夢・幻覚に悩まされ、こんなダメダメな自分を捨て去りたいと強く渇望していた。だからそれこそ和尚様がおっしゃるように「座布団の上で死に切り」たいと思っていた。悪夢・幻覚も自分がつくったもの、ならば自分で叩き去るのみ!という気概があった。一炷の間、動く身心を許さない自分がいた。

 今は仕事をしてスピーディーな日常になって、自分を甘やかすようになってきている。そんなとき悪夢・幻覚に悩まされていたときを思い出させる物がいくつか発見された。それだけであのときの感情がフラッシュバックした。

 いま自分の身体を雑巾の如く、消しゴムの如く酷使して自我を殺しきる覚悟はありますか?それくらい真剣に自分を変えたいとあのときは思っていたのでしょう?

 この程度のことで、あのときの感情が思い出されるならばまだまだ修行が足りないなと思った。気持ちを入れ替えてまた、真剣にぶっ坐る、坐をぶとう!