動中の工夫

坐禅コミュニケーション

成功は失敗の元?

 成功体験が次の挑戦を生みまた成功を生む、これは理想である。しかしそう上手くはいかないもので、成功体験「こうやったからうまくいった」に執着し、その後失敗してしまうことがよくある。

 たとえば坐禅でも「今日は実に上手く坐れた、ばっちり姿勢も呼吸も調った(調身・調息)。コツがつかめた」と喜んでいると、それ以後まったく上手くいかなくなってしまう。「あのときのように上手くいかない」と考えますますイップスの深みにはまる。

 このような場合、ひとつにはたとえ上手く坐れなくても「ありのままの調身・調息」で成り切ることである。「一寸の坐禅にも五分の魂」と考えることである。あまり「あのときの極まった姿勢を!」と考えて姿勢を何度も調えてばかりでは禅定も深まらない。なにも調身→調息→調心と順序が決まっているわけでもない。大森曹玄老師は「その反対に心を正すことによって、姿勢と呼吸が正しくなる道理もある」とおっしゃっている(『参禅入門』73頁)。

 ときには一度つかんだコツすらも忘れ去ることも大切ではなかろうか。『スッタニパータ』797-798偈に曰く「797.かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。798.ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない」(中村元訳『ブッダのことば―スッタニパータ』179-180頁、岩波文庫)と。